20km
2011年11月27日
久しぶりのタノンティア作業。今回は越境して福島の南相馬でボランティアです。
前日から仙台入りして牡鹿でボランティアしていた土浦のイイツカくんが帰りやすい場所、ということもあっての現場です。僕も翌日から新潟で仕事があるので今日の作業終わりには会津に一泊。
仙台を朝6時45分に出て到着は8時15分。
到着すると、センターになっている児童館まわりの掃除をしていました。早いっ。
前日までにイイツカくんがボランティアの予約を入れてくれていましたが、8時半から9時頃までに来てくれれば良い、と言われていたようです。
飛び込みでもこの時間ぐらいに行けば作業に参加できるようだし、可能であれば事前に予約をしておくと、チームとして前もって仕事を決めておいて貰えるようです。
みんなが到着するのを待ってる間にボランティア手続きと、センターの様子を調査します。
最初、石巻のような大きなボランティアセンター組織を想像していたのですが、尋ねたとこによると、どうやらそうではないらしいです。社協がセンターを閉じてしまったため、それまで激しくボランティアをやっていたMさんというおじさんが、児童館を借り、独立して開いたセンターだそうです。でも立場上は社協の一員、でも給料は貰わない!...と複雑な込み入った事情があるようです。Mさんの思いややりかたと社協のやりかたにズレがあり、自分のやりたいようにやっているセンターといった感じでしょうか。
「宿泊施設」としてここを借りたのがはじめだそうで、今でも滞在しながらボランティア活動ができるそうで、2階部分が滞在場所になっているようです。
1階の室内には作業手袋が干してあったり、救援物資の段ボールなどが積んであります。
バックパッカーの安宿さながら、冷蔵庫や調理器具、お酒なども置いてあります。夜な夜な熱いボランティア話が繰り広げられているのでしょうか。
ほどなくしてイイツカくん、ニヘーくん、そしてお初にお目に掛かります東京から来たタケカワくんが到着。今日は野郎だらけのタノンティアです。僕らに渡された現場は南相馬駅を越えて太平洋に向かった場所にあります。周囲はほとんど田んぼと畑で民家はチラホラ、といったごく普通の田舎風景です。原発20kmまでは数百メートルの場所です。昨日東京から仙台に帰る途中、福島の親戚からガイガーカウンターを2台(瞬間用と累積計測用)借りてきていたので細かくチェックしながらの作業です。
作業をはじめる前にセンターでMさんからこの現場の注意事項を聞かされていました。以前に入ったボランティアが家主の育てていた植木を切ってしまい激怒し、Mさんが土下座をして問題解決したこと、お隣さんと中があまりよろしくなく、現場にロープが張ってありロープから向こう側の隣の敷地の作業は絶対にやってはならないこと、などちょっと面倒臭そうな現場です。そして写真の撮影はダメだとのこと。
いざ現場に着いてみると、家主のおやっさんはそれほど気むずかしく思えない。むしろ、少々激怒しすぎたことを改めるようかのな素振りで「写真だってとっていいよ、俺はかまわない」と言った感じ。きっと津波で一財産失ってしまったショックからの一時的なヒステリーで激怒したのでしょう。被災地ではよくある出来事です。むしろボランティアに来てくれていることへの感謝のウェイトが増しているふうでした。
今日の作業はまず枯れ草集め。畑だったところに生えていた雑草に除草剤を撒いて枯らしたので、それを集める仕事です。次に地表が出てきたところに埋まっている瓦礫を掘り出すのまでを行います。敷地が広いので、家まわりの瓦礫拾いは今日は無理でしょう。
300坪以上あるだろう敷地に覆われた枯れ草をひたすら掻き集めます。天気が良くて暖かく作業をしていると少し汗ばむほどですが、やはりTシャツ一枚になるのは憚れます。
集めた枯れ草は積み上げていきます。ほら、アレだから、一応、顔に直接くっつかないようにしたほうがいいよ、と忠告。
全員喫煙者でしたがみんなで休憩時間も立ったまま喫煙です。理由は少しでも地面からキャン○マ袋を離しておきたいからです。
午前中いっぱいの作業と午後の小一時間の作業でどうにか畑ゾーンの枯れ草はタノミッドロードになりました。後日トラックで拾いに来てもらいます。燃やしてしまえば手っ取り早いのでしょうが、どうやら放射能が拡散する?とかで近隣トラブルにもなるので燃やしてはならないのだそうです。
ロープの向こうはやれません。
カマキリの卵やカエルなど生命の息吹も感じます。ただ、枯れ草で覆われた状態で測定した放射能測定値に比べ、地表が出てきた状態で計測した数値は明らかに高くなっていました。とは言っても東京の10〜20倍と言ったところでしょうか。
次の作業は土の中に埋もれた瓦礫をホジクリだす作業です。民家も少ないせいか、今までのタノンティアの現場と比べれば瓦礫の量は雲泥の差です。たまにお皿や瓦屋根が出てくる程度。
そうやってノンビリとホジクリ作業をしていると、規則正しい配列で並んだ無数の鉄の棒が出てきました。その鉄の棒は折れて地中に埋まったままのビニールハウスの足です。
さすが全員とも恋人募集中なので、とってもヌキ上手です。
まだまだ埋まって溜まっているのですが、残念ながら作業終了時間になってしまいました。
作業終わりに何気なく家主さんに庭の植物を案内してもらいましたが...
ゴルフクラブが刺さっているところにフキがあります。フキ以外は全部抜いてしまって構わないと言いますが、到底、素人には区別つきません。そりゃぁ間違って抜かれるよなー。ほかにも見せてくれたジャガイモやカボチャはまだギリギリ判別できるとしても、ミョウガやタラの芽なんてのはちょっと無理。
今日は掻いて抜くというオトコの現場でした。
センターに戻る途中にちょっと周辺視察。電波塔がねじ折れていたけれど何でだろう。津波の影響かなぁ。
20km圏内のところまで行って見ました。想像を絶する物々しい雰囲気かと思いきや、近所の子どもと警察官がじゃれ合っていました。おつとめごくろうさまです。放射能の測定数値は思ったより高くありませんでした。作業中の方が高かったかな。
センターに戻って作業報告。Mさんも心配していたので「とても気さくでやりやすかったですよー。コーヒーも差し入れてもらっちゃいましたし。」というと血相を変えて「聞かなかったことにする」と。???どうやらここのセンターの方針としては一切差し入れを貰ってはいけないとのこと。
長期的な作業がかかる場合は毎日の差し入れは被災者に負担をかけてしまう。それに貰った貰わないで作業をする方も依頼する方も意識的な変なトラブルにもなりかねない、という理由です。もちろん僕も充分理解できますが、ボランティアも被災者もいろんな人がいる。被災者の感謝の気持ちの表れとして差し入れをし、そのタイミングでグッとコミュニケーションを取る距離が縮まったりする。当初僕も極力差し入れは受け付けないようにしていたけれど、時にそれを「ありがとうございます」と言って受け取ることが、被災者の心のケアになっていることがわかった。運営側とすれば極力トラブルになる種は避けるのは理解できるところだけれど、ずいぶんとガチガチな管理だなーと、ところどころで感じていました。現場をボランティアの裁量に任せると言うよりも、必要以上の説明とかだったし。
確かにホワイトボードに宿泊者ボランティア用の時間割もあったし、朝到着したときに黙々と掃除作業をしていて僕の到着に気がついても誰も挨拶や声をかけてこない感じにちょっと違和感を覚えてました。ほかのボラセンでは知らない人同士も「おはようございマース」とか「おつかれサマー」みたいな感じだったのに。みんな口数も少なく、挨拶への返事は軽く会釈で、なんか修行僧のような雰囲気。ボランティア同士も大して会話をしておらず、和気藹々といった風では全くありませんでした。
結局Mさんの独裁のようなかたちで運営されているから止む終えないと言えば止む終えないのかも知れ合いけれど、僕のスタンスとはちょっと違うなぁと感じました。「もっとたくさんボランティア来て欲しい」と言っていましたが、場所的に敬遠されるところとはいえ、日曜だというのに僕らを含めて来ていたボランティアは僅か20名ほど。ストイックなボランティアを求める人には居心地悪くないのだろうけれど、楽しく継続して作業したい人にはちょっと重いセンターかな、と感じました。それぞれボラセンによってやり方があるんだな、とつくづく感じました。
全て作業が終わり、仙台に戻るニヘーくんとは南相馬でお別れ。僕らは東北道に乗るために二本松ICを目指します。
途中には飯舘村があるので、村役場で一旦車を停めて放射能の測定とかしてみましたが、やっぱりほかと比べてグッと数値が高くなります。東京の100倍くらいでしょうか、不覚にもマスクもつけずにTシャツ姿で十数分間測定していた上、数値の知識も持たずにいたので実際の出てきた数値を見て焦りましたが、厚労省の数値を信用(!)して、もっと瀬戸際で日々作業に努めてくれている人たちを思えば、まぁヒステリックになるような被曝量ではないでしょう。
飯舘村を走る道すがら車窓から見ていると、家の明かりがほとんど灯っていませんでした。多くの村民は避難してしまったのでしょうか。でもいくつかの家はまだ人が住んでいて、僕らが見かけたのは足の悪いご老人が人に支えられながら玄関から出てくるところでした。
確かに住み慣れた土地から、年老いた老人が離れるというのはよっぽど大変なことでしょう。一方では「もう先は長くはないんだし、住み慣れた土地に居させてあげればいい」という声もあります。昼のボランティア先でも20km圏ギリギリのお宅は家の修復作業に入っていました。そこに住み続けることを決めた人です。
ただもう一方で、誰かが住み続けて行き続けるために、警察官や公共の仕事に携わる人たちは自分の意志とは反してその場所に行かなければならなかったり住まなければならなかったりします。現に20km圏同様、飯舘村役場前にもパトカーが数台常駐していました。老人であればソーシャルワーカーが必要になるし、郵便だって宅急便だって配達に訪れなければなりません。生活をする、というのは全く自分一人だけでは決して成り立たないのです。感情論だけの行為は半ば身勝手な行為であって多くの人を巻き込んでしまうこともあるかもしれません。
そこに住み続けるのか、生きるために動かなくてはならないのか、とても難しい問題です。
隣町へ入ると数値はまた10分の1になったりします。二本松IC近くでお別れ前にみんなでラーメン。「被爆対策に味噌ラーメンやバナナがいい」という噂に流されたわけではなく、たまたまどさん子ラーメンしか見つからず、味噌ラーメンと焼肉のセットが美味しそうだったからみんなで食べただけです。
裏磐梯は雪が積もっていました。寒!
ちなみに朝仙台を出てから南相馬で作業をして翌朝までの24時間の被曝量は4〜5μSvでした。(表示が4になってたので4.0〜4.9のあいだ)。まぁ気にするほど高くはないでしょう。
また機会があれば南相馬にタノンティアに行こうと思います。
それにしても道中、様々なところで数値を計りながら、20kmという同心円の区域区別の無意味さを身をもって感じました。
Posted taiga : 2011年11月27日 23:49